マンションの一室の、ベランダに面した窓から、遅い午後の太陽光が地平に降り注いでいるのが見える。雲の切れ間から、光は数本の明るい束になって、まっすぐ地上に達している。見ていると、光は、雲の流れや太陽の動きにつれて、わずかずつだが降り注ぐ傾斜やその濃淡を変化させている。だが、そうした変化は、劇的なものではない。光は若干弱まったかに見えるとまた明るくなったり、その推移はゆるやかなもので、見ているあいだはおおむね安定していると言っていい。一時間も窓辺から離れてまた戻ってくる頃には、情景は一変しているだろうが、ずっと見つづけているかぎり、光の変化はごく漸次的なものだ。
ところで、光とは波であり、また粒でもある。光の濃淡は、電磁波の波長と振幅の違いであるし、一方で光は、振動数に比例するエネルギーをもった光子の集まりである。光は地上に達するまでに、空気中の無数の物質のあいだを通過する。水素、酸素、窒素など空気中の原子を構成している電子もまた、粒であり波である。粒と粒が衝突すればエネルギーを交換しあい、波の軌道をジャンプして光を放つ。波と波が干渉を起こせば、光は強まり、また弱まる。窓から見える光の束は、無数に誕生しまた消滅するこうした局所的な現象の、総体である。
ただし、こうした局所的な現象を、ひとつひとつ取り出して個別に観測することは、私たちにはできない。どんなミクロの世界でも覗ける望遠鏡を持ち出したところで、質量をもたない光の粒など見ることはできない。同様に電子の波は、実在する三次元の波ではなく、電子がある場所にいる状態と別の場所にいる状態を重ね合わせた、数学的な「確率の波」であって、私たちがそれを観測しようとすると、とたんに波は一点に収縮してしまう。波と波が干渉するさまや、電子が別の軌道へ遷移する瞬間を見ることなど、できはしない。
個別の現象を超えてたしかなこと、それは、ベランダの窓から、遅い午後の光が、こうしておだやかに、総体として安定して見える、ということだ。そして、おだやかに見えるあの光のなかに、私たちは、波長の微細な干渉や、電子と光子の衝突を、思い描き、想像することができる、ということだ。個別の現象をいくら足し合わせても、現象の総体を再現することはできない。逆に、見えている現象をその見えているままに受け入れ、その細部に想像をめぐらせることで、私たちは、現象の総体に関与し、そのなかに入っていき、局所的に起こる干渉や振動を、感じることができる。
ベランダの窓から室内に目を転じると、机の上に、一冊の詩集がひらかれている。ひらかれた紙の上には、漢字やかなの姿をした文字の塊が、黒ぐろと、だが適度な余白をもって、端正に刻まれている。まず眺める。そして読もうとする。折りからの西日が雲に隠れ、光が翳って、紙の上の文字を暗くする。
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