詩を書くということは、プライヴェートないとなみである。詩を書こうとする者ならだれでも、独りきりになれるわずかな時間と場所を確保しさえすればいい。そんなときにはもう、誰にも、何にたいしても、気兼ねなどいらない。あらかじめ決められたルールも、与えられた役割も、ここにはいっさいない。詩作が仕事とも遊びとも違うところは、そこだ。詩が、社会や他者に必要とされているのか、そもそも詩がいったい何の役に立つのか、などといぶかるまえに、すくなくとも、詩を書こうとする者はまず独りきりになる必要がある。何のためでもなく、詩を書くためですらなく、自分自身であるために。

では、詩は読まれなくていいのか。詩は、独りきりでいる者が、ただ自分自身であるためだけにつぶやく独白なのか。ーー性急にそう問いかけるまえに、まずこう問うてみたい。そもそも詩は読みうるのか。あたりまえのことだが、詩は言語で書かれる。知らない単語が出てきても、辞書をひけば(たいていは)意味がわかる。だが、これもあたりまえだが、意味がわかったからといって詩がわかるとはかぎらない。詩はいっけん言語で書かれたような顔をしているが、それは通常の意味での記述言語ではない。言語が表象しているはずの事物や事態と、それはかならずしも対応していない。それでは詩は、この現実とはなんの関わりもない、紙上の絵空事にすぎないのか。言語のための言語、言葉の自己増殖、たんに無意味な言葉遊びにすぎないのか。

あっさりと認めてしまうようだが、詩は、ある意味では読みえない。すくなくとも、いまあなたの間近で親しげに言葉を交わしているある人が、ふとしたはずみでわれに返り、自己のうちに引きこもって、自分自身へ意識を集中しているようなとき、あなたに見せるその表情があなたには読みとりえない程度には、読みえない。もちろんそれが読みとりえないのは、わざと秘密めかして、思わせぶりにふるまっているからではない。またその表情は、無言のうちになにかをあなたに訴えかけているわけでもない。訴えたいことがあるなら、引きこもっている場合ではなかろう。その表情がいかに、その人とあなたとのあいだにあるこみ入った関係の綾に彩られていたとしても、訴えたいことがはっきりとあるならば、「語りうることは十全に語りうる」。あとになって、「そうか、あのときは……」と思いあたるような顔をしている詩もまた、意図的な韜晦と言うべきだ。いずれ「メッセージはかならず宛先に届く」。詩は謎かけゲームではない。

むしろ驚くべきなのは、その人の見せる不可解な表情が、いや、一篇の詩が、にもかかわらず、意味の多義性や表現の韜晦によるのではなくて、奇妙に充溢し、集中と拡散のぎりぎりの境界で張りつめ、無意味の寸前まで意味の凝縮した一個の塊のように、あなたには見える、ということではないだろうか。それはなにも、自分自身のうちにすっかり安らいでいるわけではないし、われを忘れて茫然自失しているわけでもない。自足または自失、そのどちらでもないことは、あなたにもわかる。だからこそあなたはそれに惹きつけられるのだし、そこに凝縮した意味を読みとりたいと思う。自分には自分の表情はわからないのとおなじように、詩人にも、自分が書いた詩がじつは何を言いあらわしているのかわからない、といったこともありうる。

とはいえ、誤解のないように先まわりしておけば、詩と詩人は切り離して考えるべきだ、と言いたいわけではない。詩作品は、その作者から独立して完結した存在であるという、いわゆる「作品至上主義」を標榜したいわけではない。「作品がすべて」というもっともらしい言いかたの裏には、エリート的な選別嗜好が隠されている。いわば「わかる者にはわかる」という態度が匂わせる、青臭さ。こうした青臭い態度が昂じると、いずれ詩はせいぜい玄人衆の手慰みか、たんなる真贋判定の対象になってしまうだろう。出来の“良い”作品、“悪い”作品といった退屈な鑑定ゲームの素材にすぎないほど、詩は現在を欠いた過去の遺物ではない。しかもこのゲームは、「お宝鑑定」のようには金銭に還元されず、鑑定する者とされる者どうしの「詩への無償の愛」などという、顔を赤らめなければ口にできないような動機によって成立しているため、よけいに価値共同体内部での選別嗜好とエリート意識を昂ぶらせるわけだ。

なるほど、おもしろい詩があり、つまらない詩があるのにはちがいない。しかも、詩をおもしろがるのは、世間的にはごく少数の人びとにすぎないのも事実だ。だが、おもしろいとかつまらないという印象は、良い悪いという判断よりもはるかに豊かなものだ。それは、特定の文脈にもとづく価値の優劣といった狭隘な尺度では、とうてい計れるものではない。詩のように、一般的な記述言語によらない言語作品は、どこが良くてなにが悪いのか、わかってしまったほうがむしろつまらない。