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雲の切れ間から差しこむ光を見つめるように、一篇の詩を読むことができないだろうか。それは特定の行や詩句を、解釈したり言いなおしたり、部分部分の解釈をつなぎ合わせて、もとの詩では明確に語られぬまま覆い隠されていた、ひとつの物語を組み立てることではない。局所的で個別の観測をいくら足し合わせても、総体としての光は見えてこないように、こうした物語はもはや書かれたとおりの詩ではない。

一篇の詩は、孤立している。書かれてあるそれ自身のうちに、充溢し、引きこもっている。この充溢と集中は、どこから来るのか。一篇の詩のなかに折り畳まれた詩節、語、そして音のつらなりを、分子や原子、または電子として、思い描くことはできないか。意味と無意味、集中と拡散のぎりぎりの境界で張りつめている一篇の詩の潜在的な様態を、行と行の干渉、語と語の衝突による光の放出、音韻の振動や波長の遍在として、読むことはできないだろうか。

もちろんこれはひとつの比喩である。ただ、光や電子が波でもあり粒でもあるということからして、実在的な物理現象としては捉えられない確率解釈なのだから、すでに比喩的な表現であるとも言える。語=原子のアナロジーによって、私たちの想像力がどこまで、一篇の詩の読みがたさ、捉えがたさに迫れるかが、試されているのだ。

ミクロの世界の物質は粒でもあり波でもあるとする量子論は、古典物理学の二元論的で因果決定論的な世界観を棄却した。ミクロの物質を観測するとき、位置を確定すると速度が不明確になり、速度を確定すると位置が不明確になる(不確定性原理)。これは、観測という行為じたいが、観測対象の性質に計り知れない影響を与えてしまうからである。量子論の世界観では、あいまいさこそが自然の本質であり、自然現象の総体は、自然と私たち観測者との相互作用なしでは、意味をもちえない。だから近年の量子論は、「観測」を「関与」と言いかえている。

一篇の詩もまた、それじたいは本質的にあいまいで、不確定であり、そこに関与する人との相互作用がなければ、意味をもちえないものではないだろうか。詩に関与する人とは、詩の作者であり、詩の読者である。この二者と詩との関わりに、本質的な区別はない。一篇の詩の潜在的な読みがたさ、捉えがたさに、そのつどの位置または速度を与えるのは、詩の作者であり、また読者でもある。

二元論的な世界観から相補性の世界観へ。だが、作品という観念について考えるとき、私たちはまだ、作者を主体、作品を客体としてあつかう二元論的な世界観に、作者と作品におのおの原因と結果を割りあてる因果決定論に、とらわれていないだろうか。

客体としての作品、と言うとき、作品は作者の外に切り離される。作者はひとつの個体、作品もまたもうひとつの新たな個体だ。これらはいわば二つのモナドのように向かいあっている。モナドどうしは鏡像関係をなして、たがいを反映しあう。だが窓はない。作者は作品という鏡に映った自己を見る。しかもこの鏡には、作者の背後に外界が映っており、作者は作品=鏡への反射をとおして、外界を認識する。こうした関係を単純に図式化するとこうだ。

1.作者→作品←外界

客体としての作品は作者にとって、外界とのあいだにうち立てられた衝立であり、いわば隔壁である。

だが、むしろごく常識的に考えるなら、個体はモナドではありえない。作者にしろ作品にしろ、個体はさまざまな開口部をもち、窓をもつ。個体が究極の元素であるわけがないし、だからすでに出来上がって、もはやなんの変化もありえず、安定した位置を占めていられるという保障もない。個体が個体自身のうちにとらわれている枠からの自由が高まれば高まるほど、個体はひらかれた窓そのものに近づくのではないか。そのとき個体、すなわち作者と作品は、一方が他方から隔てられているのではなく、重なり合っているのではないか。

作者は作品との閉ざされた鏡像関係のなかで、いわば自己の分身と向かいあっているのではない。そうではなくて、作者はまず外界におのが身をひらくことからはじめる。外界と関わりあい、外界と相互に干渉するプロセスにおいて、そのつど一定のかたちを現わしたものが、作品となる。そこでは、作品はプロセスの結果というよりは、むしろプロセスそのものを反映しており、プロセスの生成である。このような関係をひとまず図式化するとこうなる。

2.作者⇔外界→作品

一本の線の端に置かれると、あたかも作品はプロセスの終着点のように見えるかもしれないが、そんなことはない。作者は作品というひらかれた窓をとおして、外界へと出ていけるし、自己のもとへ戻ってくることもできる。そのとき何かが窓のなかを通過して、作品はなにがしかの変容をこうむる。作品は、変容するこのプロセスを凝縮している。