詩のほうへ戻ろう。
独りきりになること。自分自身であること。それはけっして、外界からの触発を遮断してひたすら自閉することではない。そうではなくむしろ、あらかじめ決められた因果の連鎖から自己を引き離し、自己の固有性を奪回することだ。外界へひらいた窓を通路として、そこから自己の内部へ向かって坑道を掘りすすめることだ。外へ向かう通路と、内へ向かう坑道は、ひとつにつながっている。内へ掘りすすむことは、外へ出ることでもある。そのとき詩を書くこと、そして読むことは、通路=坑道を走破するプロセスであり、詩とはそのための窓なのである。
自己への集中とは、自己の分身を作りだすことではない。「考える私」と「考えられる私」を分割することではない。むしろ「考える私」に先だって、誕生のプロセスを受け入れること、誕生という環境を創り出すことだ。自足でも自失でもなく、みずからを思考することがそのまま、総体としての現象に関与し、現象の生成を引き受ける。
詩は、こうした誕生のプロセスから切り離すことができない。意味と無意味の境界で張りつめ、振動し、衝突しあいながら、かろうじて一篇の詩のなかにかたちをとっている語たちは、いまだ主語のない、非人称の誕生のプロセスを凝縮している。詩を読むこともまた、外界と自己との共振、非人称の誕生のプロセスに、巻きこまれることにほかならない。振動の強度が高まれば高まるほど、すなわち、語たちのあいだのずれやぶれが小さくなればなるほど、意味表象を超えた音韻や畳句やリズムが、くっきりと姿をあらわす。それは意味よりも同語反復にほかならず、読者は復唱するしかないものとなる。復唱することで読者は、語たちの震えに共振し、非人称の誕生を再生する。それは詩を「読む」というより、詩を「分かちあう」経験であるだろう。
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