ぼくはしばらく、横たわっている女を見おろしていました。三十分ほど経ったでしょうか、我に返って死体の処理に取りかかろうとしたとき、ある思いが脳裏をかすめました。荒唐無稽な思いです。でもそのためには、この女の体の一部を持ち帰る必要があります。

 少し考えて、手首にしました。ほっそりと白くてしなやかな五本の指、すべすべして弾力のある掌、彼女の部分のなかでもとりわけ好きだった手首です。持っていた登山ナイフで、右の手首を切り裂きました。骨のところは、ナイフの柄を石で叩いて砕きました。血は岸辺の水で洗い流しました。そのあと、遺体を湖畔の熊笹の茂みに埋めたのです。

 あの星での十年間、ぼくはいつもこの手首を携帯していました。出発までに、念入りに防腐処理をほどこし、高品質のラップでていねいにくるんでおきました。おかげで手首はいつも、傷ひとつないつややかな白い陶器のようでした。作業中にはたいてい、上着の胸の内ポケットにしまっていました。胸に手を当てると、手首はいつもそこにありました。

 おとといの帰還祝賀会に向かうときにも、ぼくはこの手首を胸ポケットにしまっていました。というよりも、ぼくの持ち物はこの手首だけだったのです。まったく迂闊でした。十年間という時のへだたりが、ぼくから、地球でのなんでもない日常生活に向けるべき注意を奪っていたとしか思えません。

 祝賀会の会場は奇妙なところでした。軍の施設のなかにある、だだっ広い謁見室なのですが、赤い絨毯が敷きつめてあって、土足ではあがれないのです。受付に上着を預け、靴は入り口にある靴箱にしまって会場にあがるように言われました。手首入りの上着を預けるわけにはいきません。かといって、手首だけ持ってあがるなど論外です。しかたなしに、というよりよく考えもせずにぼくは、手首を靴のなかに隠しておくことにしました。そしてそれっきり、手首のことは忘れてしまったのです。

 お母さん、ぼくたちは祝賀会でずいぶん歓迎されました。そしてそれは、まったくぼくたちにふさわしいことだったのです。総理がねぎらいのスピーチをしていましたが、会場がうるさくてほとんど聞こえませんでした。ぼくはシャンパンをがぶ飲みして、酔いました。ずいぶん久しぶりの感覚です。そしてあの星を思いました。

 一陣の風も、いや、ほんのわずかな動きすらない、上も下も、前も後ろも、ともかく奥行きがなく、果てもない、つまり完全な闇。時間のない闇。そしてずうっと、闇の彼岸から響いてくるのか、それともぼくという無限小の生命が内部から発している音なのか、高くも低くもなく、かすかだけれど、耳の奥を押さえつけるような轟音。……この酔いはどこか、あの星の無重力空間を遊泳している感じに似ている。会場じゅうに反響している騒音が、はるか遠くから聞こえてくるような気がして、ふと、あの闇に、暗い宇宙に鳴りわたっている沈黙の楽音のように思えました。ぼくはうっとりしていました。

 すっかり気持ちよくなったぼくは、尿意を催しました。会場を出ようとして靴箱まで行くと、脱ぐときにはぴかぴかだったぼくの靴が、急にすっかりくたびれて、見るも無惨な状態になっていました。お父さんの形見の、あの立派な黒い革靴です。あの靴をぼくがどれだけ大事にしていたか、お母さんもよくご存じでしょう。特別なときにしか履かなかったし、履いたら必ず磨いていたので、お父さんが死んでからもう三十年以上になるのに、あの靴はいまだに新品同然でした。それが会場にいた一時間ほどのあいだに、手に取るのも躊躇するほど、よれよれになっていたのです。

 ぼくは憤慨しました。というのも、祝賀会のあまりの人手のために、靴箱には入りきれないほどの靴があふれ、乱雑をきわめていたからです。ぼくの靴の上にも、もう一足の重そうなブーツが、無理やりねじ伏せるように押しこんでありました。そのブーツの下敷きになって、ぼくの大事な靴のかかとは哀れにもひしゃげ、側面は伸びきったゴムみたいに色褪せ、こんな皺までよってしまった。――そう思ったのです。

 そのブーツには見覚えがありました。プロジェクト派遣チームの同僚、**が宇宙基地でよく履いていたブーツです。ぼくは憤慨していましたが、酔いも手伝って、さらに悪戯心が湧いてきました。わざとことを大きくしてやろうと思ったのです。ぼくは会場に向かって大声を挙げました。「おーい、**。他人を踏みつけにしているとも知らずに、よくそんなに気持ちよく酒に酔えるものだね。こんなことで歓迎されるようじゃ、なんのために作った宇宙都市かわからないな。いずれむこうでも戦争になるんじゃないか。」

 いったいなにごとかと、靴箱のほうへぞろぞろと人が集まってきました。ハプニングが三度の飯より好きなマスコミ連中も、みなを率先して馳せ参じてきました。靴箱のまわりに人垣ができました。その人垣を、**が憮然とした表情で割って入ってきました。

「なんだよ、靴がどうしたっていうんだよ。」口をとんがらせながら**は、まず自分のブーツを靴箱から取り出しました。つぎにぼくの靴を取り出そうと手をかけたところで、「わっ、なんだこりゃ」と叫ぶや、靴を床に放り投げたのです。

 床に転がった片方の靴のなかが、血だまりになっていました。覗きこんだ人たちに衝撃が走り、人垣から鋭い叫び声があがりました。手首をきれいに包んでいたはずのラップはぐずぐずにほどけ、手の甲には死斑らしき紫の染みが点々と浮いていました。靴のへりには、はやくも黒ずんだ瘡蓋のような膜がこびりついています。手首は骨が透けるほど痩せ細り、萎びていました。手首が萎びたぶんだけの血を、黒靴の皮が吸ったのでしょう。手首と靴は、よく似ていました。どちらも腐ったバナナの皮のように見えました。


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