あれはぼくが十歳の夏です。ルリはまだ生まれたばかりでした。亡くなったお父さんが安置されている病院へ遺体を引き取りに行くために、お母さん、ぼくたちは三人で、こんな夕焼けの街を通りすぎましたね。あのときも、こんなふうに街は音もなく燃えあがっていました。燃えあがる街は、岸辺のない海のようでした。この夕焼けの海をどこまで泳いでいっても、お父さんがいる岸辺には、もうたどりつけない。ぼくたちはどこに向かって歩いているのか。こんなにも真っ赤に染まった街に迷いこんで、ぼくたち三人のからだはじきに燃えつきてしまうんじゃないか。ルリの幼ない瞳に、この燃えあがる街並みは映っているんだろうか。
胸のなかではそんな問いを反芻していましたが、それは口に出してはいけないことでした。でもたしかに、あのときの夕焼け、あの岸辺のない海に、お母さん、ぼくたち家族は破れそうな帆をかかげて、ただあてもなくただよい流れていました。そうです、あのときです。あのときから、そしていまでも、ぼくたち家族は漂流しているのです。お母さん、そうじゃありませんか。
この夕焼けの街のなかに足を踏み出すのが、怖くなりました。ぼくはどこに行けばいいのでしょう。お母さん、あなたとルリのいる部屋へ帰ることなど、とてもできません。愛人と暮らしていた部屋もそのままにしてありましたが、そこに帰ることを想像しただけでも、堪らない気分です。いっそのこときびすを返して、施設のなかのどこか空いている部屋にでも泊めてもらおうかとさえ思いました。でも、それも思いとどまりました。
ぼくのような得体の知れない厄介者は、施設のほうでも願い下げでしょう。ぼくは素姓をなくした人間なのです。もはや軍から派遣された栄誉ある優秀な技術者ではありません。では凶悪きわまりない犯罪者でしょうか。たしかにぼくは、この国の三〇〇万人をあの星に移住させるという軍の崇高な任務にたいして、あの手首の血で泥を塗ったのです。でもぼくがやった犯罪について、軍がいったいなにを知っているというんでしょう。萎びた手首を後生大事に宇宙から持ち帰ってきた男の心情など、はたして軍に理解できるのでしょうか。軍にとっていまやぼくは、招かれざる異人、できれば地球に帰ってきてほしくなかったエイリアンなのです。
しかたない。ぼくはおそるおそる、街に一歩を踏みだしました。黄昏のせまる雑踏のなか、顔も素姓も知れない匿名の誰かとして、家路につく人々の群にまぎれこんでしまえればまだよかった。でもそうはいきませんでした。ぼくとすれちがっていく人は例外なく、ぼくの顔を見るなり恐怖に打たれたように表情を歪ませ、すかさず顔を伏せました。無理もありません。さっきまであれだけの数の報道陣が、祝賀会の模様を生中継していたのですから。街じゅうのテレビモニターが、ぼくの顔の巨大なアップを映しだしていたことでしょう。ぼくは全裸で雑踏のなかを歩いているようなものでした。
それにしても、つらかったのは彼らの恐怖の表情ではなく、むしろ顔を伏せたあとの様子でした。のぞきこんで確認したわけではないのではっきりとは言えませんが、彼らは顔を伏せたあとなぜか、何ごとかを思い出したのか、にやっと薄ら笑いを口もとに浮かべたように見えました。いいえ、思いすごしではありません。すれちがう人、すれちがう人、みながそうなのです。彼らが通りすぎたあとにも、ぼくの背中にはあの、にやっとだらしなく横に伸びた口もとがべたべた貼りついていくようで、背筋に悪寒が走りました。
さっきまでまるで英雄のようにもてはやされ、得意になってのぼせあがっていたぼくが、わざわざ自分から墓穴を掘るようなへまをやって、いまじゃこうして逃げるように街をさまよっている――おあつらえむきの悲喜劇です。驕れる者も久しからず、そんな滑稽譚に、彼らはいわば溜飲を下げているのだろうと思っていました。ところがどうも、それだけではなかったようです。
これはあとで知ったのですが、ここ十年のあいだの、クローン技術の急速な発展と、人体への適用に関する法的な規制緩和は、いまや殺人をすっかり割の合わない、無意味な犯罪にしてしまったそうですね。いまでは自殺するときでさえ、遺書の末尾に、遺族の要望があればクローンによる再生を承諾するか、それとも断固拒否するかを申し添えておくことが、常識になっているそうではありませんか。ましてや殺人などという時代錯誤の犯罪は、もはや年に一件あるかないかだそうですね。おまけに、その稀少性のぶんだけ、逆に刑は以前より重くなっていて、いかなる理由の殺人であれまず終身刑はまぬがれまい、と聞きました。
つまり殺人は恰好のスペクタクルなのです。国民すべてが、鵜の目鷹の目で注目しています。いずれ事の真相が、微に入り細を穿って報道されるでしょう。それこそあの手首の、小指の骨のさきまでしゃぶりつくすように、です。ぼくの国民にたいする貢献は、あの星に宇宙都市を建設してきたことより、自分からひと殺しの名乗りを挙げたことのほうが大きいようです。
こうしてぼくは、行き交う人々の好奇の目と薄ら笑いを背中に貼りつけながら、少しでも人気のない路地から路地へと、追われるようにさまよっていました。入りこんだ路地の行き止まりが雑居ビルの裏口になっていたので、やみくもに裏口から非常階段を三階あたりまで駆け上がり、暗い踊り場でやっと一人きりになって、息をつきました。
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