非常階段の踊り場の、冷たいコンクリートの壁にもたれかかって息を整えていると、暗がりからあの血だまりに浮かんだ手首が、目の前にぼんやりとあらわれてきました。剥がれかかった爪のあいだから乏しい血をしたたらせ、爪は指先にひらいた眼となって、五つの黒い眼が、泣きながらこちらを向いていました。ぼくは呼吸をはずませながら、手首に声をかけました。
――ねえ、さっきはいったいどうしたの? おまえはなにを嘆いているの?
防腐処理は完璧だったのです。もちろん血はまっさきに抜き取ってありました。だからこそ十年ものあいだ、おまえはあんなにもすべすべした白磁のような艶をたもっていたんじゃなかったのか。
でも、暗く埃っぽい雑居ビルの踊り場であの光景を反芻しているうちに、この世の常識なんていかにたよりなく、真実からほど遠いものか、という思いが募ってきました。あの手首は、ぼくが祝賀会の会場に入るまで、生きていたのです。あの女が、ぼくから離れては生きていけない、というのはほんとうでした。あの女の意志は、それこそ指の爪の先まであの女そのものだった。それこそが、血のかよった意志というものです。ぼくはそんな女を、二度殺したのです。
ひんやりとした息が頬にかかったような気がして、ふいに手首の幻がかき消えました。なにがあっても、ほんの一時でも、ぼくはあの手首を手放すべきではなかった。人目を逃れてまぎれこんだ暗い非常階段の隅にうずくまって、ぼくはとうとうほんとうにひとりぼっちになってしまったことを知りました。女への、愛しさとすまなさで胸が熱くなりました。十年経ってやっと、頬に温かいものが伝わるのを感じました。
上のほうで、フロアから階段への鉄扉を開けて下りてくる足音が響きました。ぼくはびくっとして、階段を下りかけました。涙に浸っている暇はない。ぼくは階段を下りながら、声を殺して泣きました。
階段から裏口を出たところで、ぼくはいそいで涙をぬぐいました。路地の行き止まりの塀に、さっきよりもさらに濃い代赭色の夕陽が映えていました。それからぼくは、そそくさと路地を抜けて、表通りに向かいました。
もうこれ以上、すれ違う人々の視線に曝されるのは耐えられない。それに、夕闇が迫っていました。すっかり暗くなってしまうまえに、今晩落ち着ける宿を見つけなくては。人目を避けて無益な時間を費やすより、あえて賑わっている通りに飛びこんで、一刻でもはやく、一人きりになれる部屋を探すんだ。ぼくはみずからを急きたてるようにして、ふたたび雑踏の流れのなかに紛れこみました。
表通りに出て百メートルも行ったところに、「俎板横丁」とかいう看板が上に懸かった繁華街の入口がありました。ちょうどその入口のところで、五分刈りに捻り鉢巻きで、板前ふうのにいちゃんが安倍川餅を焼いていました。ぼくは思いきって、その男に尋ねることにしました。
「この近くに、旅館はありませんか。安宿でいいんだけど。」
男は顔を挙げ、ややまぶしそうにぼくを見上げました。ぼくの背後から、ほとんど沈みぎわの夕陽が、男の顔へまともに照り映えていたからです。男のまなざしには、恐怖も、好奇心も、宿ってはいませんでした。その瞳は生気を放って澄んでいました。ぼくはこの街にさまよい出ていらい、はじめて救われたような気がしました。
「ここを五〇メートルぐらい行った左手に、『神田屋』ってのがありますよ。両隣りが居酒屋で、少々うるさいけどね。」
もう暗くなりかけた横丁の奥を指さしながら、男は答えました。ぼくは礼を言って、餅をひとつ頼みました。昨晩口にしたのは、結局これきりです。
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