「神田屋」に行ってみると、たしかにいかにもこじんまりとした場末の木賃宿でした。探しながら、ひょっとしていわゆる「連れこみ」で、あたりをはばかるようなたたずまいだとすると、玄関などうっかり見落としてしまうのではないかと気にしていたのですが、一階正面はすっかりガラス張りで、小狭いフロントと窮屈なロビーのソファーなど外からまる見えなのには、いささか拍子抜けしてしまいました。「ユースホステル」と言うのでしょうか、ぼくも学生時代に、こんな宿を何度か利用したことがあります。

 ガラス戸を開けて玄関で靴を脱ぎました。ほかにも五、六足の靴が脱ぎちらかしてありました。床にはまたしても赤い絨毯が敷きつめてあります。ただ今度ばかりは、もう隠すものなどなにもない。疲労と安堵も手伝って、ぼくはちょっと投げやりな、むしろ晴れやかな気分でフロント脇の呼び鈴を威勢よく押しました。出てきた婆さんはいかにも大儀そうに、僕の顔など見もせず、まるでひとりごとのような調子で、「個室はいっぱいなので二階の広間でもいいか」とつぶやくように聞きました。やはりここは「連れこみ」なのか、と思ったほどです。

 ぼくは少し躊躇しました。もしその広間が食堂も兼ねているのなら、一人きりというわけにはいくまい。かといって暗くなった往来に出て、またあてもなく宿を探しまわるような余力は、もうありそうもない。やや間をおいてぼくは、「食事は?」と訊ねました。うちは食事は出さない、外で食べてくれ、という答えです。ここに泊まることにしました。

 階段にも赤い絨毯が敷きつめてあります。二階に上がってすぐ右手が広間でした。廊下の手前と奥にふすまがあって、どちらも開いたままになっています。手前から入ると、広間の奥で三人の男が車座になって酒を飲んでいました。「ああ、そういうことか」、とっさにぼくは了解しました。ぼくは彼らに背を向けて、広間の隅に腰を下ろしました。すぐに眠ってしまおうと思いました。

 軍のやつらです。海老茶色の気色の悪い軍服は、いっけん普通のスーツのようでもありますが、ぼくにはすぐにわかります。胸の等級章もちらっと目に入りましたが、星ひとつ、つまり最下等です。いわばごろつきのような連中です。あさってこのぼくがたしかに軍の小法廷に出頭するまで、どこぞへ逃げも隠れもしないように見張っていろというのが、上からの命令なのでしょう。それにしても、さっきからずっとつけていたにちがいないが、先手を取ってぼくの立ち回り先で張りこんでいるなんて、こいつらにしてはずいぶん機転が効いているじゃないか。そうか、あの安倍川餅のにいちゃんもグルだったのか。どうりでぼくの顔を見ても驚かなかったわけです。そこまで思いあたると、こいつらや軍にたいする憎しみもすっかり萎えてしまい、なんとも殺伐とした気分でした。

 広間は二十畳ほどの畳敷きの、広間というよりは支度部屋か女中部屋といった風情で、部屋の両端には蒲団が無造作に、崩れそうなほど積み重ねてありました。廊下と反対側の、横丁に面したサッシがひろびろと開けはなたれていて、往来の喧噪がひっきりなしに聞こえてきます。ぼくは積み重なったところからひと組の蒲団を引っぱってきて、窓に近いところに敷きました。見張りどもの聞きたくもない会話が、往来の喧噪で少しでもかき消えてくれれば、と考えたからです。

 ぼくは早々に蒲団をひっかぶって寝ようとしましたが、連中は案の定ぼくに関する噂話を聞こえよがしにしはじめました。こんなスキャンダルは前代未聞だとか、いま宇宙開発技術庁の長官が軍司令部に出頭しているとか、現地派遣スタッフのなかで不幸にも生還できなかった数名を追跡調査中だとか、プロジェクトじたいの見直しが検討されるらしいとか、まあそんなような話です。クローン技術の急速な発展と、それにともなう殺人の無意味化、重罪化というのも、このとき連中から聞くとはなしに聞いた話です。

 そのうち、酔いがまわってきたのでしょう、連中のなかでも若いらしいのがぼくに絡みはじめました。「女を殺すのって、どんな感じですか」とか、「手首がもうひとつあると、なにかと便利なんでしょう」とか、舌をなめずるような薄汚い胴間声でこちらに声をかけてくるのです。年配らしいのが「まあまあ。あの人も参ってらっしゃるようだから」などと言いながら、若造を制していましたが、そのじつ面白がっているようです。しばらくは無視していましたが、あまりしつこいのに腹を据えかねて、ぼくはやにわに蒲団をはねのけると、連中のほうにつかつかと歩みよりました。

 連中の会話がとぎれました。だらしなくにやけていた口の端が、それでも少しひきつったようで、酔いに充血した緩慢な六つの瞼が、半開きにぼくを見上げています。数秒の間をおいて、ぼくはこのうえなく滑らかな調子で、声をかけました。

「どなたか、ティッシュ・ペーパーをお持ちではないですか。」

 三人は阿呆づらを見あわせ、しばらく目くばせしていましたが、やがて若造が軍服の内ポケットをごそごそやって、使いかけのポケット・ティッシュを黙ってぼくに差しだしました。ぼくはそのなかから一枚取りだすと、二つにちぎり、それぞれを細長いこよりにして、舌で湿らせさらに小さくたばねて、両方の耳に詰めました。唖然としている連中の目の前で、用済みのポケット・ティッシュを両手でまるめて窓の外に放り、それからくるりと背を向けてまた蒲団にもぐり込みました。


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