連中はそれきり静かになりました。かわりに窓のむこうから聞こえてくる、酔客の喧噪が大きくなってきたようです。ティッシュの耳栓ではたいした防音にはなりませんね。でもどうせ眠れないのだから、意味不明の雑音にはむしろ救われました。おかげでぼくは、愛人のおもかげにも、悔恨にも、哀傷にも囚われることなく、蒲団をかぶったまま瞳を見開いて、ただひたすら夕焼けの街の情景を反芻していました。さっきまでぼくが見ていた情景に、三〇年まえぼくたち親子三人が見たあの夕焼けの映像が、ちらちらと重なりあって浮かんでくるのです。
そこで三〇年まえの、あのときの街の様子を、もっとよく細部まで思い出そうと記憶をたどってみました。ところがいざ映像の部分に焦点を合わせようとすると、身の丈ほどの工事中の黄色い看板と、アスファルトが大きく裂けて口をあけ、その割れ目から妙になまなましい赤茶けた土の塊が覗いているのが見えてくるだけで、それ以外はどうもあやふやなのです。それにあのときのお母さんの表情も、よく思い出せないんです。無理に思い出そうとすると、逆光だったんでしょうか、真っ暗になってしまうんです。
あのときぼくは、お母さんの後ろをくっついて歩いて、お母さんの顔は見なかったのでしょうか。いいえ、手をつないで歩いていたように覚えています。それどころかお母さん、病院までの道すがら、あのときあなたは何度もぼくに念を押すように、むしろ自分に言い聞かせるように、「パパ、死んじゃったんだよ」と言っては、そのたびにぼくの顔をのぞきこんだのではなかったですか。それともあれは、なにかの記憶違いでしょうか。
見張りどもが広間から出ていく気配が、背後から聞こえてきました。ぼくに黙らされて酔いが醒めたので、交代で飲みなおしにでも出かけたのでしょう。残ったやつを、視線で茶化してやりたくなって、ぼくは蒲団から首だけ出して、連中のいた方向へ頭をもたげました。
するとどうでしょう、三人ともいないじゃありませんか。見張りどころじゃない、正真正銘のごろつきだったわけだ。軍の頽廃ぶりもここまでとは。ごろつきどもの卑劣な窃視趣味の肴にされていたのかと思うと、一瞬灼けるような殺意を覚えましたが、すぐに思いなおしました。あいつらと、さっき街ですれちがいざまぼくに薄ら笑いを投げてよこした群衆と、いったいどこが違うというのだろう。ぼくがいま気にしなければならないのは、ああいう下司な他人のことではない。あすぼくは、お母さん、どうしてもあなたに会わなければならない。
連中が三人とも出ていったのは、かえって好都合でした。おかげでお母さん、あなたに電話をかけるためらいが消えました。広間に備えつけの電話が置かれていることは、ここに入ったときから確認してありました。十年ぶりにかける電話です。かろうじて覚えている二つの番号のうちのひとつを、確かめるように押しました。二回のコールで、お母さん、たしかにあなたのなつかしい声が耳もとに響きました。
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